こんなツイッターアカウントを見ました。

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参照

>>意見の違う方との議論は
>>時間の無駄なので致しません。


これを見た時、私は反知性主義たちの肖像という文章を思い出しました。


「反知性主義」というものがどういうものか考えるのに役に立つと思いますので、少し長いですが引用してみましょう。

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ホーフスタッターはこう書いている。

反知性主義者は、思想に対して無条件の敵意をいだく人々によって創作されたものではない。まったく逆である。教育のある者にとって、最も有効な敵は中途半端な教育を受けたものであるのと同様に、指折りの反知性主義者は通常、思想に深くかかわっている人々であり、それもしばしば、陳腐な思想や認知されない思想に取りつかれている反知性主義に陥る危険のない知識人はほとんどいない。一方、ひたむきな知的情熱に欠ける反知識人もほとんどいない。
(リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳)

中略)

この言葉はロラン・バルトが「無知」について述べた卓見を思い出させる。バルトによれば、
無知とは知識の欠如ではなく、知識に飽和されているせいで未知のものを受け入れることができなくなった状態を言う。

(中略)

「自分はそれについては良く知らない」と涼しく認める人は「自説に固執する」ということがない。他人の言うことをとりあえず黙って聴く。聴いて「得心がいったか」「腑に落ちたか」「気持ちが片付いたか」どうかを自分の内側を見つめて判断する。

そのような身体反応をもってさしあたり理非の判断に帰ることができる人を私は「知性的な人」だとみなすことにしている。そのような人たちは単に新たな知識や情報を加算しているのではなく、
自分の知的な枠組みそのものそそのつど作り変えているからである。知性とはそういう知の自己刷新のことを言うのだろうと私は思っている。

(略)

「反知性主義」という言葉からはその逆のものを想像すればいい。反知性主義者たちはしばしば恐ろしいほどに物知りである。一つのトピックについて、手持ちの合切袋から、自説を基礎づけるデータやエビデンスや統計数値をいくらでも取り出すことができる。けれども、それをいくら聞かされても、私たちの気持ちはあまり晴れることがないし、開放感を覚えることもない。というのは、この人はあらゆることについて正解をすでに知っているからである。正解をすでに知っている以上、彼らはことの理非の判断を私に委ねる気がない。

「貴方が同意しようとしまいと、私の語ることの真理性はいささかも揺るがない」というのが反知性主義者の基本的なマナーである。「あなたの同意が得られないようであれば、もう一度勉強して出直してきます」というようなことは残念ながら反知性主義者は決して言ってくれない。彼らは「理非の判断はすでに済んでいる。あなたに代わって私がもう判断を済ませた。だから、あなたが何を考えようと、それによって私の主張することの真理性には何の影響も及ぼさない」と私たちに告げる。

正直言って非常にわかりづらい文章ですが、早い話、「反知性主義者」は、自分の結論に固執して、他者の意見を受け入れようとしない、ということです。逆に、「知性的な人」は、自分の無知を認めることができ、他人の意見を聞き、自分の考えを変えることができる柔軟さを持っているというわけです。


この考え方に基づくと、最初に紹介した人など、まさにこの「反知性主義」だということができるでしょう。「意見の違う人との議論は時間の無駄なのでしない」のであれば、自分と同じ意見の人としか話さない、自分と同じ意見しか取り合わない、ということになります。当然、「自分の知的な枠組み」を作り替えることなど決してできません。自分が出した結論に固執し、それに合う情報や意見だけを求め、さらにその結論に固執するだけです。


桜井誠を支持し、在日犯罪の危険性を声高に主張する人に、警察庁のデータを見せてその主張が間違っていることを説明したら、「あなた達がエセデータで反論しても世の中の犯罪や刑務所は在日朝鮮人でいっぱいですし、ヤ〇ザ人って在日朝鮮人ですよね」と言われたことがあります。


警察庁のデータをエセデータと呼ぶことからもわかるとおり、何を言われようと自分の結論に疑問を持つことはないのです。


「日本の受刑者の97%が外国人か帰化人」というデマに騙されていた人で、統計局のデータを見せられても、その自説に固執した人を見たこともあります。

↑統計局のデータよりも自分の思い込みを信じる人


また、南京事件(南京大虐殺)否定派で、20万殺害なんてありえるわけがない、と主張する人に、「日本人研究者で20万なんて言っている人はいない」「『20万人』という被害者を否定しても、南京事件そのものの否定にはならない」ことを説明したら、「大虐殺は20万人ということになっている」と意味不明な反論をされたことがあります。



何なんだ、「なっている」って…。いつどこでそんなこと決まったんだか。単に彼の脳内で決められたことであることは言うまでもありませんね。


他にも、「在日の生活保護費は2兆3000億円」というデマを信じていた人に、生活保護のデータを見せて嘘だと説明した際に、「信じません」「貴方がどちら側の人間かはすぐにわかりました」と言われたこともあります。そのツイートは現在は削除されていますが、これはすごかったですね。反論のデータを見て、それが真実かどうか疑問をもつのはわかりますが、「信じません」と宣言されたのは驚きました。この人は、データが真実かどうかなど全く関係なしに、自分の結論に沿うものだけを求める人なのでしょう。


実は、最初に引用した文章は、今年の東京大学の入試問題に採用されています。以前東大の入学式の式辞を紹介したことがありますが、どうやら東京大学は現在の日本に蔓延する反知性主義を危惧しているように思います。改めて、東大入学式の式辞を引用してみましょう。

情報が何重にも媒介されていくにつれて、最初の事実からは加速度的に遠ざかっていき、誰もがそれを鵜呑みにしてしまう。そしてその結果、本来作動しなければならないはずの批判精神が、知らず知らずのうちに機能不全に陥ってしまう。ネットの普及につれて、こうした事態が昨今ますます顕著になっているというのが、私の偽らざる実感です。

しかし、こうした悪弊は断ち切らなければなりません。あらゆることを疑い、あらゆる情報の真偽を自分の目で確認してみること、必ず一次情報に立ち返って自分の頭と足で検証してみること、この健全な批判精神こそが、文系・理系を問わず、『教養学部』という同じ一つの名前の学部を卒業する皆さんに共通して求められる「教養」というものの本質なのだと、私は思います。

今回紹介した「ネトウヨ」と呼ばれるような人たちは、自分の現在持っている結論を疑うことを知りません。それに反対する意見やデータが示されても、決して自分の「知の枠組み」を組み替えることができず、逆にデータの方を「エセデータ」と認定したり、時にはただ単純に「信じません」と突っぱねることさえあります。


このような反知性主義に陥らないためには、常に「疑う」ということを忘れず、一方の意見や情報だけでなく逆の立場にも目を通し、自分自身を含めてあらゆることを疑うことができる「健全な批判精神」を身に着けることが、何よりも大切であると思います。


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