今回はデマや差別の指摘というより、私の「オピニオン」として考えてください。


先日大相撲でモンゴル人力士である照ノ富士に対し、「モンゴルへ帰れ」と、心ないヤジが飛びました。法務省もヘイトスピーチの具体例として「○○(祖国)へ帰れ」を挙げている通り、「○○(祖国)へ帰れ」はヘイトスピーチの典型例だと言えます(日経参照)。


しかし、一部のネットモブ(※「モブ」とは暴徒の意味。彼らが「右翼」ではなくただの「暴徒」に過ぎないという考えから生まれた、「ネトウヨ」に変わる新しい言葉)は、「差別だ」という批判を「パヨクはいちいち人種差別だなんだと騒ぐな」と反論しています。中には「このヤジを言ったのは日本人ではないのではないか」とさらなる差別発言に繋げる愚か者もおり、彼らの「差別している」という自覚のなさには驚きを禁じえません。

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(↑「反日勢力を斬る」というネットモブサイトに載っていた文言。「モンゴルへ帰れ」を「ヘイトだ」「差別だ」と批判することこそ問題だと主張し、さらには「それを言ったのは、果たして日本人かどうか」と、さらなる差別に繋げている)


当然、この野次を飛ばした人間も、「モンゴルへ帰れ」を差別だと思っていないからこそそのような野次を飛ばしたのでしょう。しかし、これは、一部のおかしな人たちだけの問題ではなく、現在の日本全体の問題であるように思えてなりません。


というのは、稀勢の里が優勝し、横綱に昇進した際に、多くのファンやマスコミが「日本出身横綱」と騒ぎ立てたからです。

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「稀勢の里優勝」が嬉しいのか「日本出身力士優勝」が 嬉しいのか


「日本出身力士の優勝」「日本出身横綱」と見出しが躍る状況に違和感を覚えていた人も少なくないと思いますが、世間は圧倒的に「日本出身横綱」稀勢の里のフィーバーになりました。もちろん、稀勢の里は立派な力士ですし、人気になるのも当然で、応援するのも当たり前です。しかし、「日本出身」だから彼の活躍を喜ぶ、という風潮はいかがなものなのでしょうか。


例えばサッカーであれば、代表選があり、代表には日本国籍者しかなれませんので、日本人プレイヤーの活躍を喜ぶのは理解できます。日本人プレイヤーの活躍は、日本サッカー全体の底上げ、日本代表のW杯での活躍につながるからです。


しかし、各チームで言えば、国籍は関係ありません。昨年Jリーグで優勝した鹿島アントラーズにはペドロ・ジュニオールやレオ・シルバなどの外国人選手がいますが、日本人だろうが外国人だろうがアントラーズの一員であり、日本人選手がゴールを決めようが外国人選手がゴールを決めようが、それはアントラーズの得点なのですから、選手の出身でゴールを喜んだり喜ばなかったりするのなら、それはおかしなことです。


また、日本国籍を取得さえしていれば日本人であり、日本代表になれる資格があるのですから、出身で応援したり応援しなかったりするのはおかしな話です。事実、かつて日本代表にいたラモスや三都主などは、日本代表として多大な貢献を残しました。李忠成の活躍無くして、2011年アジアカップ優勝はありませんでした。


ところが、大相撲においては、「日本人」どころか「日本出身」で大喜びするありさまです。「日本人」ではなく「日本出身」となっているのはハワイ出身横綱の武蔵丸が日本に帰化しているからですが、「日本人」どころか「日本出身」で騒ぐというのは、帰化していても他の日本人と区別しようとする、非常に偏狭なナショナリズムに立脚していると言ってよいでしょう。


もちろん稀勢の里自身は立派であり、彼の活躍を喜ぶファンが大勢いるのは当然なのですが、「日本出身力士」フィーバーは、「出身を理由に応援する」ことを肯定し、「日本出身力士の優勝は、外国人力士の優勝よりも嬉しいこと」という雰囲気を作り上げましたそれは、裏を返せば、「出身を理由に応援をやめたりブーイングをしたりしてもよい」「外国人力士の優勝は嬉しくないこと」という雰囲気を作り上げたと言っても過言ではないでしょう。


「稀勢の里の優勝」「稀勢の里の横綱昇進」を喜ぶのではなく、「日本出身力士の優勝」「日本出身力士の横綱昇進」を喜ぶ風潮が、「モンゴルへ帰れ」というヤジに繋がったと考えてよいと私は思います。


同様のことは、かなり右派として知られる松本人志や小籔千豊も述べています。小籔は「『日本人力士が』と言われるたびにすごく胸が痛くなる」と述べており、彼のこの感想には私も完全に同意します。「日本出身力士」の活躍が、自分たちの時よりもはるかに歓迎されている状況を、モンゴル出身横綱の3人はどのような気持ちで見ていたことでしょうか。

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マイナビニュース2017年4月2日



差別「行為」に差別「意識」は関係ない


このブログで何度も言っていることですが、ほとんどの場合、差別をする人は自分が差別をしているという意識が希薄です。事実、冒頭で紹介した『反日勢力を斬る』というサイトも、「モンゴルへ帰れ」というヤジを差別ではないとして、逆に差別だと批判する人たちを非難しています。


これはいじめと同じ構造だと言えるでしょう。いじめる側は、多くの場合「いじめている」という意識が希薄なことでしょう。しかし、いじめられる側は時には自殺に追い込まれることまであります。いじめかどうかの認定に、いじめる側の意識は一切問題にされません。

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(篠原健太、集英社『SKET DANCE』1)


差別も同様であり、差別する側の意識は一切問題になりません。差別する側からすれば、どんな卑劣な言葉も「差別ではない」と言うことでしょう。


ですが、出自、人種、性別などを理由に、誰かを攻撃したり傷つけたりすれば、それは確かに差別なのです。攻撃する側の自覚の有無は関係ありません。


相撲協会が稀勢の里の横綱昇進を決めたのも、「日本出身横綱」を早く誕生させたかったからで、外国人力士だったらこの成績では昇進していなかっただろうという指摘も少なくありません(参照)。相撲関係者から「モンゴル横綱を中心に回ってきた土俵に“くさび”を打ち込んでくれる」という発言が出たり(参照)、横綱審議委員長が「日本国民の期待」と発言したり(参照)していることからも、相撲協会が「日本出身横綱」にこだわっていたことは間違いないでしょう。


「日本人」や「日本出身」にこだわるのは相撲だけに限らず、ノーベル賞でも、人類の発展に寄与した人物に贈られるものであるにもかかわらず、どういう研究で受賞したかもわからないまま、あたかも国別対抗戦のように「日本人が受賞した」と騒ぎます。しかも、米国籍を取得して米国で研究している人まで「日本人が受賞」の中に入れて。


しかし、出自を理由に贔屓をすることは、出自を理由に差別をすることと表裏一体です。そろそろ「日本の国技」だとか、日本人とか外国人とかそんなみみっちいことにこだわるのはやめ、「日本人力士」ではなく「稀勢の里」を応援し、「モンゴル人力士」ではなく「照ノ富士」や「日馬富士」を応援するようにしてはどうでしょうか。そうすれば、「モンゴルへ帰れ」などというヤジはなくなることでしょう。


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