<ざっくり言うと>
  • 日韓併合など日本の過去について、「当時は合法だったから、反省する必要なし」とする人が大勢いるが、その考えは間違いである。
  • 「合法だった」「違法でない」というのは、犯罪として裁かれないというだけのことで、「反省の必要はない」ことではない。
  • 米国は当時は合法で倫理的にも是とされた日系人強制収用の過ちを認め公式に謝罪し、日本は当時は合法で倫理的にも是とされた旧優生保護法強制不妊手術について過ちを認め謝罪を行った。
  • 現在の価値観から過去を見直し、過去の行為が間違っていたと気づいたのであれば、過ちを認めて反省するのは、人間として当然の行為である。
(スポンサードリンク)

目次

吹き荒れる「当時は合法だったから問題ない」論


これまで何度も植民地朝鮮についての記事を書いてきましたが、そういう記事を書くと決まって表れるのがこの手の反論。

2019y09m13d_230755048

>>併合が問題の意味がわからん
>>武力で併合したとして何か問題あるの?当時併合を禁ずる条約ってあったの?
>>ヒロポンが合法な時代にヒロポン打って何か問題あるの?
>>今の価値観で断罪して意味あんの?
この記事

2019y09m13d_231733854

>>遡って、現代の価値観で、当時の事を断罪するのは間違いの元です。この記事

2019y09m15d_112429275

>>前から気になってたけど、すべてを今の価値観でさばいて反省すべきって正当なのか?
>>今の法律、今の価値観が通用するのは今の時代だけ。
>>それを忘れたら、ある意味「法治国家」は成り立たないよ?
この記事


早い話、「当時は合法だったからOK」という理屈ですね。しかし、この考えは、「日本は悪くない」という結論ありきの言い訳と思わざるを得ません。


今回は、この「当時は合法だったもん」論などについて記事にしたいと思います。


「合法」「違法じゃない」とは「罪にならない」という意味でしかない


そもそも、韓国併合当時は国際連合も国際連盟もなく、ルールなんて欧米列強が勝手に決めただけのものなわけで、国際法と呼べるだけのものが存在していたかどうかさえ疑わしく、「当時は合法だった」なんて主張は、単に「欧米列強も同じことをやっていた」程度のことにすぎません。そんなことを声高に叫んでも仕方がないように思いますね。A子ちゃんもB子ちゃんもカンニングしたからって、C子ちゃんのカンニングが許されるわけじゃなかろうに。


では、「禁止する法律がないんだから合法だ」という主張を採用したとしましょう。しかし、「合法だった」というのは「罪にならない」という意味であり、「善だった」という意味でも、「悪でなかった」という意味でも、「反省しなくていい」という意味でもありません。


例えば、いじめを考えてみましょう。2013年に「いじめ対策防止法」が作られ、初めて「児童等は、いじめを行ってはならない」というのが法的に明文化されましたが、それまでいじめを禁じる法律はありませんでしたし、現在でも罰則規定はなく、いじめは犯罪になりません。


(窃盗、暴行等は犯罪になりますが、例えば、集団によるシカト、卑猥なあだ名をつける、毎日「死ね」と言うなどの行為を禁じる法律はなく、いじめは犯罪にならない)


じゃあ、法律で禁じられていないから、犯罪にならないから、いじめは問題ないのでしょうか? いじめ加害者は、じぶんの過去を反省しなくてもいいのでしょうか?


そんなことありませんね。


時間が経って、過去の自分のやってきたことが間違いだったと気が付いたのなら、たとえ犯罪でなくても反省しないといけません。そして、過去の過ちについて、謝罪するのが人間の筋でしょう。


過去にさかのぼって犯罪が成立して裁かれることはありません。しかし、過去にさかのぼって反省することは当たり前のことです。



「当時の価値観では問題なかったもんね」論の間違い


「当時は合法だったもんね」論と並行して行われるのが、「当時の価値観じゃそれは普通だったもんね」論です。

2019y09m14d_155710561

>>オランダがインドネシアを、ドイツがアフリカを、イギリスがマレーシアを、フランスがカンボジア、ベトナムを自国領にした歴史があるように当時は国取りゲームは当たり前だったわけこの記事


この主張をするものは大変多いですが、こんな主張に意味はありません。「他の国もやってた」なんてのは、強者の理屈でしかないからです。

Case1:いじめ


もう一度、いじめについて考えてみましょう。クラスのいじめられっ子A君を、クラス全員でいじめている。クラス全員でその子を集団シカトしている。つまり、このクラスでは、A君をシカトするのは当たり前なわけです。


では、当時の倫理観では集団シカトは当たり前だったから、「みんなもやってたし、ボクは悪くないもんね」で済ませられるのでしょうか? そんなことはないでしょう。「他の人もやってた」というのは、「他の人も悪かった」というだけの事であり、「自分は悪くなかった」ということではありません。後から当時の自分の過ちに気が付いたのなら、反省するのが当然でしょう。


第一、当時被害者が抵抗していたのなら、「当時の倫理観では問題なかった」とさえなりませんね。たとえ犯罪にならなかろうと、たとえ当時のクラス内でいじめを問題視する人間がいなかろうと、それによって苦しむ被害者がいたわけですから、  強者側の論理で「当時の倫理観では問題なかった」などと言っていいものではありません。

Case2:体罰


次は体罰について考えてみましょうか。


教師が体罰を行うのはかつては当然視されていました。かつては教師も、親も、そして児童生徒自身も、体罰を間違ったものと考えてはいなかったでしょう。


でも、時代が下るにつれ、体罰は許されないという風に倫理観が変化していきました。


では、かつて体罰を行っていた教師は、体罰が許されないという風に価値観が変わった際に、自分の過去の指導について、何も反省しなくていいのでしょうか?


そんなことはないですね。自分の行っていた過去の指導が、現在の価値観から見て間違っていたことに気が付いたら、たとえ当時の風潮として体罰が容認されていたとしても、過去の指導を反省し、今後の指導に活かしたり、次の世代の教師が同じ過ちを犯さないように指導したりするべきでしょう。


もちろん、かつて体罰を行っていたからといって、その教師が「悪い教師」であったとは必ずしも限りません。現在の価値観から判断して、当時の人間を「善人」「悪人」と決めつけてしまうことは、慎重にならねばなりません。


しかし、現在の価値観から判断して、過去の行為が間違いだったと考えられるのであれば、反省は必要です。行った「人」は悪人でないとしても、「行為」は間違っていたと認めることが必要です。


しかるに、最近のネットでは、過去の日本の植民地支配について、「当時の価値観からしたら問題なかった」「現在の価値観で過去を断罪するのは間違っている」と言って、過去の反省自体を否定する風潮が見られます。「当時の価値観ではよかった」は、過去を反省しなくていい理由にはなりません。


「過って改めざる、これを過ちと言う」と言いますからね。過去の過ちを正当化することこそ、まさに過ちと言えましょう。



日系人強制収用を謝罪したアメリカ政府


実際の政治上の例を見てみましょう。


太平洋戦争当時、米国では日系人が敵性市民とみなされて強制収容所に送られたことをご存知でしょうか。アメリカだけでなく、カナダやオーストラリアや南米諸国でも強制収容所に送られたり、戦後日本に強制送還されたりしました。米国内だけで、12万人以上が強制収容されたそうです。


当時も違憲訴訟を起こした日系人はいたのですが(フレッド・コレマツ)、1944年に「違憲ではない」という判決が出ています。当然、倫理的感から問題視した人も大して多くなく、戦争当時、アメリカ国内においては、日系人強制収用は倫理的に問題がなく、違法でもなく、正しい行為として認められたわけです。


しかし、1960年代の公民権運動などを経て、アメリカの倫理は変化します。人種差別が間違いだという意識が広がり、過去の日系人強制収容にも注目が集まります。


1970年代にはフォード大統領が当時の日系人強制収容が誤りであったことを認め、カーター大統領の時に実態調査が始まり、レーガン大統領やブッシュ(父)大統領の時に、アメリカ政府は日系人強制収容被害者に謝罪と賠償を行いました。


カルフォルニアの検事だったアール・ウォーレンは、戦争当時は日系人強制収用を積極的に支持していましたが、のちに自らの過ちを認め、当時の自分の判断について「深く後悔している(deeply regret)」と述べています。(参照記事


もしも、「現代の価値観で、当時の事を断罪するのは間違い」であるのならば、日系人強制収用は決して断罪されることはなかったでしょう。「当時は問題なかったもんね。合憲判決出たもんね。反省も謝罪も賠償も必要ないもんね」と突っぱねられてしまったことでしょう。


しかし、アメリカ政府は、現代の価値観で過去を見直し、「当時の日系人強制収用は誤りだった」と認め、反省、謝罪、賠償を行いました。


私は、これは当たり前のことだと思いますね。


「現代の価値観で、当時の事を断罪するのは間違い」と主張する人は、アメリカ政府が日系人強制収容の過ちを認め、反省、謝罪、賠償したことは間違いだったというのでしょうか?


当時の価値観では間違ってなくても、現在の価値観から過去を見直して間違っていたと認めたのならば、反省するのは当たり前だと思いますね。


原爆投下については、アメリカ政府は、過去の価値観でも、現在の価値観でも、過ちだったと認めていません。でも、もしかしたら、将来的に倫理観が変わり、「原爆投下は間違いだった」と認めて米国政府が公式に日本に謝罪する日が来るかもしれませんね。



旧優生保護法の過ちを認めて反省・謝罪した日本


もう1件、実例を出しましょう。日本にかつて優生保護法というものが存在し、遺伝的疾患等を持つ人に対して強制的な不妊手術が1万6000件も行われました。


このようないわゆる断種法は当時の世界では全然珍しくなく、当時は「優生学」という学問がもてはやされ、1907年の米国インディアナ州を皮切りに、世界各地で断種法が実行されました。(ナチスドイツのイメージがついている人が多いと思いますが、発祥はアメリカ。ナチスの断種法は米国を真似たもので、ロックフェラー財団はナチスの断種政策に資金援助までしていた)


つまり、断種法(優生保護法)は当時の世界では倫理的に全く問題視されておらず、むしろ人道的とさえみなされていました。「障害がある子供は、生まれてきてもつらい人生を送る。それなら最初から生まれてこない方が幸せだ。社会にとってもその方が幸せであり、将来的に遺伝的疾患を負った子供がいなくなり、社会の構成員全てが幸せに暮らせる」という理屈ですね。


今の価値観からしたら危険すぎる発想ですが、当時は危険どころか人道的に正しいとさえ思われていたんですよ。マジで。


じゃあ、当時の価値観では問題なかったから、反省しなくていいんでしょうか?


そんなことありませんね。


今年4月、旧優生保護法による被害者に対する「強制不妊救済法」が制定され、総理大臣が「政府としても、旧優生保護法を執行していた立場から、真摯に反省し、心から深くお詫び申し上げます」と述べています。


日本の過去を反省したくない人は、このように言います。


「今の価値観で断罪して意味あんの?」

「遡って、現代の価値観で、当時の事を断罪するのは間違いの元です」

「すべてを今の価値観でさばいて反省すべきって正当なのか?」

「今の法律、今の価値観が通用するのは今の時代だけ」



もしも、この理屈が成り立つのであれば、旧優生保護法の過ちを認めたことは間違いであり、被害者救済なんてことは間違いだってことになっちゃいますね。そんなことがおかしいことは、誰だってわかりますよね。


当時の価値観で問題なかったことだって、時代が変わり、価値観が変わり、過去の行為が過ちであったと気が付いたのであれば、反省するのが当然のことなのです。



過ちては改むるに憚ること勿れ


米国の日系人強制収容や、日本の優生保護法の例を見てもわかるように、当時は合法だろうが、当時の価値観ではOKだろうが、それは「過去の反省をしなくていい」ことにはなりません。


現在の価値観から見て、過去の過ちに気がついたら、反省と謝罪をするのは、人間として当然のことと言えましょう。それは、法的に罪になるか、法的に謝罪義務があるかとは、別の問題です。


当時まだ生まれてもいない我々一人一人が謝罪する必要はもちろんありません。しかし、行為者である国家は過去を反省する必要があります。戦後生まれのビル・クリントンも、強制収容された日系人に謝罪したように、国民の世代が移っても、国家は継続しているのですから、国家は責任を果たさねばなりません。


日本は村山談話などを通じて、過去の侵略と植民地支配に対する反省と謝罪を行いました。ところが、近年インターネット等で、「併合が問題の意味がわからん」「今の価値観で断罪して意味あんの?」さらには「日本は悪くなかった」「むしろ日本は感謝されるべきだ」という主張が湧いており、せっかく行った過去の反省と謝罪をないがしろにしようとしている人たちがいます。


当時の価値観がどうであれ、当時の法律がどうであれ、現在の価値観で見て、間違っていることであるならば、間違っていたと認めるのが当然でしょう。それは、賠償しなければいけないかどうかという問題とはまた別の話です。賠償の義務がないことは、「反省しなくていい」「正当化していい」ことにはなりませんから。


現在の価値観で見て、過去の人間を善人とか悪人とか決めつけてしまうことには、慎重にならねばなりません。しかし、過去の行為については、当時の価値観がどうであれば、現在の価値観で見て、間違っていたと思えば、間違っていたと認めることをためらうべきではありませんし、まして、過去の過ちを正当化するべきではありません。


「小人の過つや、必ず文(かざ)る」
(品性が卑しく度量の狭い人は過失を犯しても改めようとはしないで、これをつくろいかざろうとする)

「過ちて改めざる、是を過ちと謂う」
(過ちはだれでも犯すが、本当の過ちは、過ちと知っていながら悔い改めないことである。)

「過ちては改むるに憚ること勿れ」
(過ちを犯してしまったら、ためらわずに悔い改めよ。)


日本人として、これぐらいの言葉は肝に銘じておきたいものです。


どうやって今の価値観が形成されてきたかを学び、今の価値観で過去を見ることで、未来の行動の指針とする。歴史を学ぶ意義とはそこにあると思います。

にほんブログ村 政治ブログへ 
にほんブログ村 政治 ブログランキング
(スポンサードリンク)