安全保障関連法案が施行されました。国会前では反対デモが行われ、各新聞、テレビなどで取り上げられていますが、産経新聞にSEALDsに対する批判記事、いえ、中傷記事が掲載されていました。
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産経新聞HP

 
==呼び捨てのシュプレヒコールはおかしくない==

野党やSEALDsの安保反対デモを批判する内容で、首相を「安倍」と呼び捨てにしたり、「あんた」と呼んだことが強調され、野党やSEALDsが無礼で暴力的であるかのような印象を与えようとする意図が見て取れます。

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しかし、安倍総理に直接「安倍!」と呼び捨てにしたのならともかく、コールとして「安倍は辞めろ!」と言うことに、何の問題があるというのでしょうね。産経は「呼び捨てにしたコールを連発した」などと書いていますが、むしろ当然のフレーズだと思いますけどね。民主党政権時代の反政府デモでも、「野田はNOだ」とか「菅辞めろ」とかありましたからね。

 
(↑民主党政権時代の反政府デモの例

反政府デモで、呼び捨てじゃないシュプレヒコールなんてなかなかない気がしますが。チャウシェスクに反対する民主化デモで、「チャウシェスクさん」とか「チャウシェスク大統領」とか言いましたかね? 台湾の反馬英九デモでも、「馬英九」って呼び捨てにしてましたし、反政府デモなんて大抵呼び捨てじゃないんですかね?

==「主権在民」が理解できない産経新聞==


しかし、呼び捨てを強調している件以上に、私が産経新聞記事の酷さを痛感したのはこの部分でした。

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>>「この国の最高責任者はあなたじゃない」と、
>>意味不明な独自の見解を披露した。

私はこれを呼んで、「ここまで堕ちたか、産経新聞」と思いました。「意味不明な独自の見解を披露」って、これ大手新聞社が書く表現ですかね? まとめサイトの書き込みか、個人ブログにしか見えないんですが。大手新聞社なら、「意味がわからない」って思ったら、「意味不明」で終わらせないで、真意を取材するぐらいの努力はしたらどうなんですかね。産経は以前もSEALDsについて「実態は不明」などと書いたことがありましたが、「不明なら調べよう」という気がないのが流石産経新聞です。

内閣総理大臣は行政府の長ではありますが、民主主義国家において主権者は国民です。これまでのデモやSEALDsの発言を見れば、SEALDsが言っている「最高責任者」とは「主権者」の意味であることは明白でしょう。これは安倍総理が憲法解釈変更の際に「最高責任者は私だ」と発言したことを受けての表現であることも、常識的判断力さえあれば理解できて当然のことです。

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新聞赤旗14年2月15日

総理大臣も含め、政治家は国民から委任されて行政を任されている立場にあり、国民に雇われている立場です。こんなことは、意味不明でもなければ、独自見解でも何でもありません。まともな判断力があれば、ここでの「最高責任者」とは「行政の長」という意味ではなく、「主権者」という意味だと解るはずです。

そして、改憲は主権者たる国民のみが持っている権利であり、安倍総理がやった「閣議決定で憲法解釈を変更する」というのは、国民主権を侵害する行為である、というのは、多くの法律の専門家が指摘しているところです。だからこそ「民主主義って何だ」というシュプレヒコールが起きているのです。

ちょっと分かりにくいという人は、弁護士会のHP等に同様の説明がありますので読んでみてください。2つほど引用します。

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(↑札幌弁護士会HP

>> 立憲主義・国民主権からの問題点
>> 日本国憲法は、国民主権に立脚し(憲法前文、第1条)、
>>憲法改正について、その最終決定権者を国民と定めている(憲法第96条)。
>> これは、立憲主義によって確保されるべき個人の尊厳及び
>>基本的人権の主体である国民自身が憲法改正の最終決定権を持つこととし、
>>これによって立憲主義を全うしたものである。
>> ところが今、政府は、本来、憲法を改正しなければなし得ない集団的自衛権の行使容認を、
>>7.1閣議決定とこれに基づく法令の改正及び制定により実現しようとしているが、
>>これは、憲法第96条を潜脱し、国民主権を侵害し、
>>ひいては立憲主義を否定する行為だと言わざるを得ない。


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(↑香川県弁護士会HP


>> 憲法は国民が政府に対して制約を課したものであること
>> 憲法は、主権者である国民が、政府を含めた国全体の行動に対し、
>>中長期的に制約を課し、いわば政府を縛っているものである。
>>憲法の存在により、時々の政府が主権者たる国民の権利を侵害することを
>>予防しているのである。
>> その憲法の解釈を、他ならぬ縛られている立場である政府自身が変更することにより、
>>国民に是非を問うこともなく、これまで行使できないとしてきた
>>集団的自衛権を行使できるようにすることが許されるはずもない。
>> このようなことが強行されれば、もはや憲法はその担うべき役割である
>>「政府への制約としての役割」を果たせているとはいえず、
>>憲法によって守られるべき国民主権が危機に瀕すると言わざるを得ない。


このSEALDsの「この国の最高責任者(=主権者)はあなた(総理大臣)じゃない。(国民だ)」という発言は、「主権在民」を言い換えただけなのですが、これを「意味不明な独自の見解」と表現してしまうということは、産経新聞記者は意味を理解できなかったのでしょう。

SEALDsの発言が意味不明なのではなく、単に産経新聞記者の理解力が低いというだけですね。


==「解釈変更」と実質的な「改憲」の差==

恐らく、ここまで読んでも、
「『憲法の変更』と『憲法解釈の変更』をごっちゃにしている」
「憲法は解釈して運用するしかないのだから、法律を運用する行政府である内閣が『憲法解釈の変更』を行うのは何の瑕疵もない」
という人が出てくると思われるので、説明しておきます。

法律が解釈するしかない以上、解釈の仕方が人によって異なるのは仕方がない所がありますが、当然客観的な文言から考えられる範囲内に収まらねばなりません。

例えとして、「ここは馬の立ち入り禁止」という法律があるとします。その「馬」がサラブレッドのような一般的に言う「ウマ」だけなのか、シマウマも入るのか、これは法律の解釈の範囲内となります。ところが、この「『馬』とは『哺乳類』の意味である」と強弁して、犬も猫も立ち入り禁止にしたら、法律を逸脱した解釈になります。このようなぶっ飛んだ解釈は、もはや実質的な法改正であり、許されることではありません。こんなことがまかり通っては法の秩序が崩壊します。 

さて、今回の集団的自衛権の行使容認ですが、95%の憲法学者が違憲と判断し、上述の弁護士会の声明にもあるように、憲法の解釈から導き出すには無理があるわけです。再び香川県弁護士会のHPを引用します。

>>憲法9条の文言との整合性も踏まえ、自国の安全を保障するための
>>必要最小限の実力は保持できるし行使も可能であるが、それ以上のことはできない、
>>というのが憲法9条の文言の解釈として導き出されうる限界であり、
>>この解釈は、これまで内閣自身が踏襲し、積み重ねてきた解釈でもある。
>> 一方、集団的自衛権は、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、
>>自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力を持って阻止する権利」
>>と定義されるところ、このような集団的自衛権の行使は、
>>未だ自国民の生命・財産が直接危険に晒されていない状態での実力の行使であるから、
>>自国の安全を保障するための必要最小限度という
>>憲法が認める範囲を超えることが明らかである。
>> このように、憲法9条の解釈として、
>>集団的自衛権の行使が認められないのは、当然の論理的帰結である。


なので、集団的自衛権の行使を容認するのであれば、憲法を改正するのが筋なわけです。

「集団的自衛権の行使容認は憲法解釈を逸脱している」
「集団的自衛権行使容認には、改憲が必要である」

という、ほとんどの憲法学者が共有している考え方に基づくと、安倍総理が行った解釈変更は、ただの解釈変更の枠組みを超えて、実質的な改憲だと言えるわけです。

これに対し、「『憲法の変更』と『憲法解釈の変更』をごっちゃにしている」「改憲をしたわけでなく、解釈を変えただけだから問題ない」という批判をすることこそ、常識的な「解釈の変更」と、解釈幅を逸脱して「実質的な改憲」とをごっちゃにしている粗雑な議論だと言えます。「馬の立ち入り禁止」の「馬」の中にロバが入るかの議論と、犬が入るかの議論はレベルが違います。


==安倍総理の「私が最高責任者」という
言葉のミスリード==


以上のことを踏まえると、安倍総理の「私が最高責任者」という言葉の「最高責任者」という言葉が、単なる「行政府の長」とか「日本の首脳」とかの意味を逸脱していることがわかります。

本来、集団的自衛権容認は改憲せねばなしえないことなのに、それを閣議決定で容認し、実質的な改憲を行いました。その批判に対し、「私が最高責任者だ」と答えたということは、「最高責任者であれば、このような実質的な改憲さえも可能である」ということを意味しているわけです。

ところが、それは先ほど引用した札幌弁護士会のHPにもあるように、改憲は主権者である国民にのみ認められた権利です。行政における最高責任者は総理大臣ですが、改憲における国の最高責任者は、間違いなく主権者である国民です。

安倍総理の「私が最高責任者」というセリフは、「行政府の長」という意味の「最高責任者」を逸脱し、「改憲権力を持つ者」という、「改憲における最高責任者」にまで拡大して、ミスリードしているといるわけです。本人は無意識でしょうけど。

総理大臣は行政府の長ですが、改憲の権限は持っていません。改憲の権限を持った、改憲における最高責任者は主権者である国民です。よって、実質的な改憲を行い、その行動の批判に対し「最高責任者は私だ。(だから今回の解釈改憲も許されるのだ」と反論すれば、「あなた(総理大臣)は最高責任者じゃない。(国民が最高責任者だ)」という批判が起きるのは、至極当然のことです。

「あなた(安倍総理)は国の最高責任者じゃない」という箇所だけトリミングして、「意味不明な独自の見解」と書いた産経新聞は、この「最高責任者」という表現が、2014年2月12日の「最高責任者は私だ」という言葉を踏まえてのもんだということを、恐らく理解できなかったのでしょう

文脈を考えず、そこだけトリミングし、「意味不明な独自の見解」 と表現する産経新聞。自分の理解力が足りないがために理解できなかっただけのことを、相手の発言が「意味不明」だと言い張る産経新聞。「新聞」を名乗る価値があるとは思えない、頭の悪さです。


==「選挙で国民が認めた」という人治主義発言==


このように言うと、「閣議決定後の選挙でも自民党が勝利している。国民が認めたんだ」と言う人が大勢いますが、それも間違いです。

それはなぜか。ルール違反が行われたら、それが仮に認められたとしても、ルール違反であることに変わりはないからです。

サッカーを例に出してみましょう。

Aチームがハンドの反則を犯しました。Bチームはそれを見ながらも、「まあ、いいか。じゃあ手を使ってもいいことにしよう」と言って、反則を容認し、試合を続行することにしました。

するとどうなるでしょう。Aチームはまたハンドを繰り返すでしょうし、Bチームも同様にハンドを始めるでしょう。もはやサッカーが成り立ちません。

このように、ルール違反を見逃したら、競技自体が成立しなくなります。たとえ相手チームが「いいよいいよ」「構わないよ」と言おうが、反則を取らねばなりません。

スポーツのルールブックに相当するものが、国政で言えば憲法に当たります。「選挙で選ばれたから、ルールブックを書き換えてもいい」では、競技が成り立ちません。「解釈変更した後の選挙でも勝利したから、国民に認められた。だから構わない」という考え方は、「ハンドしたけど、相手チームが見逃してくれたから問題なし」と言うに等しく、それはもはや法治国家ではなく、人治国家です。

安倍政権がやっていることは、法治国家にあるまじき人治主義政治です。「憲法解釈を勝手に変更するのは独裁だ」というのは、こういう意味です。


==まとめサイトレベルの産経新聞==


ところが、産経が自分の頭の悪さを棚に上げてこんな記事を書くものだから、あたかもSEALDsが議会制民主主義を否定したかのような理解をする人が出てくるわけです。困ったものですね。

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(↑みそパンNEWS
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(↑石平太郎氏
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(↑はちま起稿

「はちま起稿」は「憲法に『最高責任者』って書いてあったwww」なんて書いていますが、言うまでもなく憲法に「内閣総理大臣は国の最高責任者である」なんて書いてありません。

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憲法に書いてあるのは「日本の行政府である内閣の首長」ですね。行政府の最高責任者、という意味です。SEALDsが言っている「国の最高責任者」が、「行政府の長」という意味ではなく、「主権者」という意味だということぐらい、これまでのSEALDsの発言を見ていれば理解できそうなものですけどね…。

こんな2ちゃんねるまとめサイト並みの理解力しかない、意味不明な独自見解の記事を書く新聞は、もう新聞と名乗る価値などありません。毎回言っていますが、「ネトウヨ速報」とでも名前を変えるのが分相応だと思います。


民主主義ってなんだ?
高橋 源一郎
河出書房新社
2015-09-18




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