前回に引き続き、八幡和郎氏の蓮舫批判についてです。
(スポンサードリンク)
八幡和郎氏は繰り返し「蓮舫」という名前で政治家をやっていることを批判し、本名の「村田蓮舫」で出ろ、と主張しています。彼の理屈では、「蓮舫」と名乗るのは日本的なものを拒否している証拠なんだそうです。
ところが、蓮舫氏は18歳まで「謝蓮舫」が本名で、日本籍になってからは母親の戸籍である「斉藤蓮舫」となり、94年、27歳の時に結婚して「村田蓮舫」になっています。3つに共通している「蓮舫」だけを使うというのも理解できますし、そもそも蓮舫氏はタレント活動をしており、そのころから「蓮舫」と名乗っていました。

(↑タレント時代の蓮舫のビデオ)
議員活動を芸名でやることは法律上禁止されておらず、「アントニオ猪木」なんて議員もいますので、「蓮舫」を問題視する八幡氏の主張は、「気に食わない」という感情論以上のものにはなっていません。
さすがに八幡氏も、名前ばっかりにこだわって批判するのは論理性に欠けると自分で思ったのか、「中華風な名前だというだけで反日だと言う気はない」とか「日本的な名前にばかりこだわるわけではない」と弁解します。しかし、「それなら、別のところで日本人としての誇りとか愛情とか証しを示してほしいが、まったくそうしないのが不思議だ」と批判を続けます。

(こちら参照)
これ、帰化した人に対して良く向けられる批判ですが、「日本人としての誇りとか愛情とか証しを示す」って、いったい何をやれっていうんですかね? どうやったら日本人としての誇りとか愛情とかの証しをしめすことができるんでしょう? 右翼みたいに日の丸持って君が代流して街宣しろとでも言うんですかね?
その示し方の一例として、八幡氏は孫正義氏を挙げます。

>>海援隊の旗印をロゴに使って、
>>近代日本国家への愛着を
>>それとなく示してくれて嬉しい
海援隊の旗印を使うのが近代日本国家への愛着!!??
坂本龍馬のファンなだけだろ???
孫氏は日本に帰化するずっと前、学生のころから坂本龍馬が大好きで、アメリカ留学も龍馬の脱藩に重ね合わせていたらしいです。特に海援隊(亀山社中)は日本最初の株式会社なので、孫氏のような商売人がその先見性や行動力に憧れるのはごく自然なこと。
別に孫氏は「近代日本国家への愛着」を示すために海援隊の旗印を使っているわけではないだろうに、国家国家とそんなことばかり考えている人は、なんでも「親日」「反日」という視点からしか見られないんですかね。ここには、日本で生まれ育ち日本の教育を受けた人相手であっても、人種や国籍が違えば「外の人間」としてしか見ることのできない、八幡氏の激しく偏狭なナショナリズムが表れていると言っていいでしょう。
そのあとの欧米の名前についての記述は、本当に八幡氏が東大出身なのか疑わしくなるひどいものです。

はっきり言って、これ以上なくばかばかしい。
外国出身でも読み方だけは英語風にする、というのは、Charlesを英語ではチャールズ、フランス語ではシャルルと発音するだけのこと。これは、「蓮舫」を中国語では「リエン・ファン」で日本語では「れんほう」と発音することと同じです。この理屈なら、蓮舫は「リエン・ファン」ではなく「れんほう」と名乗っているので、何の問題もなく日本名、ということになります。
(一方で、ミハエル・シューマッハは、ドイツ人であるにもかかわらず、「英語流にマイケルと呼んでほしい」と言っているらしく、フランスやイタリアでもミシェルやミケーレにならずに「マイケル・シューマッハ」と呼ばれています)
スミスがもともとドイツ系シュミットというのも、アメリカに帰化する際や、第一次大戦中などにそのように直した人が多いのは事実ですが、最近では直さないことも珍しくありません。例えば元メジャーリーガーのマイク・シュミットという選手もいます。ヴェルナー・フォン・ブラウンも、アメリカに帰化しても、ドイツ名 von Braun を英語流の Brown に直しませんでした。
(余談ですが、映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』に登場するドクの本名はエメット・ブラウンで、もともとフォン・ブラウンだったのが第一次大戦中に名前を英語流に変えた、という設定になっています)
アインシュタインとかアイゼンハワーとか、相当する英語名がない場合は当然のことそのままです。アイゼンハワーが、誰が聞いてもドイツ系と分かる名前のまま対独戦の指揮官となり、大統領にまでなったということを考えれば、八幡氏の名前に対する批判がどれだけ中途半端で愚かなことかお分かりいただけるのではないでしょうか。
そのあと、本名の話なのか芸名の話なのか、ごっちゃになった訳の分からない批判を続けます。

「帰化したら日本風のものを入れてもいいのではないか」というのは、完全に八幡氏の押し付けでしかありませんし(この人はヴェルナー・フォン・ブラウンにもアルベルト・アインシュタインにも文句を言うのだろうか?)、蓮舫氏は日本籍取得の際には母親の籍に入り「斉藤蓮舫」になっています。いったい何に文句をつけているのでしょう。
また、ラモス瑠偉を例に挙げていますが、ハーフナー・マイクのような例もありますし、陸上のウォルシュ・ジュリアンはハーフですが日本的な名前が入っていません。
そして、芸名である「蓮舫」に対し、「村田蓮舫と本名なのに、頑なに、蓮舫だ、謝蓮舫だということで通すことは華人としての意識が日本国民としてより優先していることを拳を上げて強調している趣」なんて、もうあまりにも勝手な決めつけ。
最初に述べた通り、村田というのは夫の姓であり、蓮舫氏は政治活動を始める前から「蓮舫」で通していました。それに、生まれたときの名前である「謝蓮舫」を使って、何の問題があるでしょうか。八幡氏の「帰化したら日本名を名乗れ」「日本名があるのに使わないのは日本国民としての意識が足りない証拠」という理屈は、自分の価値観を他人に押し付けているだけの幼稚な感情論にすぎません。
帰化した人がどういう名前を名乗ろうが、個人の価値観の問題でしょう。日本に帰化したからには日本的な名前を名乗る、という人もいれば、帰化したけど父親とのつながりを残したいから「謝蓮舫」となのるという価値観もあるでしょう。価値観の多様性が叫ばれる中、どうしてここまで幼稚な価値観の押し付けをできる人間が大学教授なんてやっていられるんですかね?
八幡氏は続けて自分なりの名前制度を提案します。

「現在提案されている夫婦別姓」を「いかにも中国や韓国のやり方に従う」ものだと八幡氏は述べています。
私はこれを読んで、「ああ、八幡和郎ってバカなんだ」と確信しました。
夫婦別姓というと、すぐに中国韓国を持ち出してくるとは、マインドがネトウヨと全く同じです。
中国韓国の夫婦別姓は完全夫婦別姓で、女性は希望しても夫の姓を名乗ることはできません。また、韓国の場合、現在は法改正により子供が母親の姓を名乗ることもできるようになりましたが、以前は強制的に父親の姓を名乗ることになっていました。
一方、日本で提案された夫婦別姓は選択的夫婦別姓で、同姓にしてもいいし、別姓にしてもいいというもので、中国韓国とは全く異なります。イギリスやドイツやオーストラリアやニュージーランドなどで選択的夫婦別姓が可能でして、日本で提案された夫婦別姓はむしろ「欧州型」とか「英独型」とでも呼ぶべきものです。
中国韓国のやり方に従っているなどと考える八幡和郎氏は、2ちゃんねるまとめサイトでも読んで鵜呑みにしているのでしょう。
そして、「夫婦別姓はミドルネームや複合姓を認めれば解決する」と主張し、「 ヒラリー・ローダム(旧姓)・クリントンというように、村田=謝・蓮舫とか、村田=謝・蓮舫=花子とかしたらいいのだ」と主張します。
「夫婦別姓はミドルネームや複合姓を認めれば解決する」って、認められてないから問題が起きてるんでしょうが!!
認められていれば「村田=謝・蓮舫」とでもしていたかもしれないでしょうが、現実として認められていないのに、いったいどういう批判をしているのでしょう。現行制度の上で批判してもらいたいものです
大体、自分で「蓮舫はファーストネームだけで、氏・名の形になっていないからだめだ」と批判していた人が、「村田=謝・蓮舫」を推奨するってどういうこっちゃねん! 全然一貫性が感じられません。
帰化人やハーフがどんな名前を名乗ろうが、それはその人の価値観であり、そんなことを他人が批判すべきではありません。ローラやベッキーやシェリーなど、全く日本的でない名前を名乗っているハーフタレントも少なくなく、政界入り前に芸能活動をしていた蓮舫もその一つに過ぎないでしょう。
もしも欧米系のハーフタレントが蓮舫氏と同じように芸名で政界入りして野党第一党の党首になりそうになった際に、八幡氏は同じような批判をするでしょうか。私はそうは思えません。この八幡氏の論理性のなさを見ていると、中華系の名前のままというのが気に食わない、というただそれだけにしか見えません。
名前は個人のアイデンティティの問題です。制度上芸名での活動が認められている以上、「蓮舫」で通すことに何の問題もありません。八幡氏は蓮舫氏の名前だけでなく、蓮舫氏の子供の名前まで持ち出して、蓮舫氏の「華人意識」の高さを批判します。もはやこれはヘイトスピーチと言ってもいいかもしれません。繰り返しになりますが、ハーフの人が両親の国どちらも大切にして、いったい何が悪いことがありましょうか。
政治家を批判する際に、政策や実行力ではなく、元の国籍や名前を問題視する八幡氏。自分勝手な価値観を押しつけるその傲慢ぶりや、自分の感情論を押し通すための論理性のないでたらめで幼稚な2ちゃんねる並みの論理展開にはあきれ果てますが、八幡氏の蓮舫批判のばかばかしさは、これで終わりではないのです。
これは八幡氏個人の問題にとどまらず、愛国カルトな人たちの国籍や人種感覚を考えるうえで役に立つと思いますので、またまた次回に続きます。

にほんブログ村 政治 ブログランキング(スポンサードリンク)
・政治家になる前から「蓮舫」だった
八幡和郎氏は繰り返し「蓮舫」という名前で政治家をやっていることを批判し、本名の「村田蓮舫」で出ろ、と主張しています。彼の理屈では、「蓮舫」と名乗るのは日本的なものを拒否している証拠なんだそうです。
ところが、蓮舫氏は18歳まで「謝蓮舫」が本名で、日本籍になってからは母親の戸籍である「斉藤蓮舫」となり、94年、27歳の時に結婚して「村田蓮舫」になっています。3つに共通している「蓮舫」だけを使うというのも理解できますし、そもそも蓮舫氏はタレント活動をしており、そのころから「蓮舫」と名乗っていました。

(↑タレント時代の蓮舫のビデオ)
議員活動を芸名でやることは法律上禁止されておらず、「アントニオ猪木」なんて議員もいますので、「蓮舫」を問題視する八幡氏の主張は、「気に食わない」という感情論以上のものにはなっていません。
・なんでも「親日」「反日」でしか見られない幼稚な視点
さすがに八幡氏も、名前ばっかりにこだわって批判するのは論理性に欠けると自分で思ったのか、「中華風な名前だというだけで反日だと言う気はない」とか「日本的な名前にばかりこだわるわけではない」と弁解します。しかし、「それなら、別のところで日本人としての誇りとか愛情とか証しを示してほしいが、まったくそうしないのが不思議だ」と批判を続けます。

(こちら参照)
これ、帰化した人に対して良く向けられる批判ですが、「日本人としての誇りとか愛情とか証しを示す」って、いったい何をやれっていうんですかね? どうやったら日本人としての誇りとか愛情とかの証しをしめすことができるんでしょう? 右翼みたいに日の丸持って君が代流して街宣しろとでも言うんですかね?
その示し方の一例として、八幡氏は孫正義氏を挙げます。

>>海援隊の旗印をロゴに使って、
>>近代日本国家への愛着を
>>それとなく示してくれて嬉しい
海援隊の旗印を使うのが近代日本国家への愛着!!??
坂本龍馬のファンなだけだろ???
孫氏は日本に帰化するずっと前、学生のころから坂本龍馬が大好きで、アメリカ留学も龍馬の脱藩に重ね合わせていたらしいです。特に海援隊(亀山社中)は日本最初の株式会社なので、孫氏のような商売人がその先見性や行動力に憧れるのはごく自然なこと。
別に孫氏は「近代日本国家への愛着」を示すために海援隊の旗印を使っているわけではないだろうに、国家国家とそんなことばかり考えている人は、なんでも「親日」「反日」という視点からしか見られないんですかね。ここには、日本で生まれ育ち日本の教育を受けた人相手であっても、人種や国籍が違えば「外の人間」としてしか見ることのできない、八幡氏の激しく偏狭なナショナリズムが表れていると言っていいでしょう。
・間違いだらけの欧米比較
そのあとの欧米の名前についての記述は、本当に八幡氏が東大出身なのか疑わしくなるひどいものです。

欧米では、そもそも、移民国家だから、いろんな言語の名前があるが、読み方だけは英語風とか、同じ語源の英語名にするケースも多い。アルザス出身の指揮者で生まれたときはドイツ人、第一次世界大戦でフランス人になって、ボストン交響楽団で活躍したフランス語名シャルル・ミュンシュは,ドイツではカール・ムンクだったし、アメリカではチャールズ・マンチと呼ばれていた。
スミスさんというアメリカ人は、ほとんどドイツ系シュミットさんだ。オランダ系のルーズベルトは、もともとはローゼンベルツ、ギリシャ系のアグニュー副大統領は、アナグノストプロス、ジーンズを発明したリーバイスさんはフランス人レビさんだ。
はっきり言って、これ以上なくばかばかしい。
外国出身でも読み方だけは英語風にする、というのは、Charlesを英語ではチャールズ、フランス語ではシャルルと発音するだけのこと。これは、「蓮舫」を中国語では「リエン・ファン」で日本語では「れんほう」と発音することと同じです。この理屈なら、蓮舫は「リエン・ファン」ではなく「れんほう」と名乗っているので、何の問題もなく日本名、ということになります。
(一方で、ミハエル・シューマッハは、ドイツ人であるにもかかわらず、「英語流にマイケルと呼んでほしい」と言っているらしく、フランスやイタリアでもミシェルやミケーレにならずに「マイケル・シューマッハ」と呼ばれています)
スミスがもともとドイツ系シュミットというのも、アメリカに帰化する際や、第一次大戦中などにそのように直した人が多いのは事実ですが、最近では直さないことも珍しくありません。例えば元メジャーリーガーのマイク・シュミットという選手もいます。ヴェルナー・フォン・ブラウンも、アメリカに帰化しても、ドイツ名 von Braun を英語流の Brown に直しませんでした。
(余談ですが、映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』に登場するドクの本名はエメット・ブラウンで、もともとフォン・ブラウンだったのが第一次大戦中に名前を英語流に変えた、という設定になっています)
アインシュタインとかアイゼンハワーとか、相当する英語名がない場合は当然のことそのままです。アイゼンハワーが、誰が聞いてもドイツ系と分かる名前のまま対独戦の指揮官となり、大統領にまでなったということを考えれば、八幡氏の名前に対する批判がどれだけ中途半端で愚かなことかお分かりいただけるのではないでしょうか。
・あまりに押し付けがましい名前論議
そのあと、本名の話なのか芸名の話なのか、ごっちゃになった訳の分からない批判を続けます。

「帰化したら日本風のものを入れてもいいのではないか」というのは、完全に八幡氏の押し付けでしかありませんし(この人はヴェルナー・フォン・ブラウンにもアルベルト・アインシュタインにも文句を言うのだろうか?)、蓮舫氏は日本籍取得の際には母親の籍に入り「斉藤蓮舫」になっています。いったい何に文句をつけているのでしょう。
また、ラモス瑠偉を例に挙げていますが、ハーフナー・マイクのような例もありますし、陸上のウォルシュ・ジュリアンはハーフですが日本的な名前が入っていません。
そして、芸名である「蓮舫」に対し、「村田蓮舫と本名なのに、頑なに、蓮舫だ、謝蓮舫だということで通すことは華人としての意識が日本国民としてより優先していることを拳を上げて強調している趣」なんて、もうあまりにも勝手な決めつけ。
最初に述べた通り、村田というのは夫の姓であり、蓮舫氏は政治活動を始める前から「蓮舫」で通していました。それに、生まれたときの名前である「謝蓮舫」を使って、何の問題があるでしょうか。八幡氏の「帰化したら日本名を名乗れ」「日本名があるのに使わないのは日本国民としての意識が足りない証拠」という理屈は、自分の価値観を他人に押し付けているだけの幼稚な感情論にすぎません。
帰化した人がどういう名前を名乗ろうが、個人の価値観の問題でしょう。日本に帰化したからには日本的な名前を名乗る、という人もいれば、帰化したけど父親とのつながりを残したいから「謝蓮舫」となのるという価値観もあるでしょう。価値観の多様性が叫ばれる中、どうしてここまで幼稚な価値観の押し付けをできる人間が大学教授なんてやっていられるんですかね?
・自分勝手な妄想と現実の区別もつかない八幡和郎
八幡氏は続けて自分なりの名前制度を提案します。

「現在提案されている夫婦別姓」を「いかにも中国や韓国のやり方に従う」ものだと八幡氏は述べています。
私はこれを読んで、「ああ、八幡和郎ってバカなんだ」と確信しました。
夫婦別姓というと、すぐに中国韓国を持ち出してくるとは、マインドがネトウヨと全く同じです。
中国韓国の夫婦別姓は完全夫婦別姓で、女性は希望しても夫の姓を名乗ることはできません。また、韓国の場合、現在は法改正により子供が母親の姓を名乗ることもできるようになりましたが、以前は強制的に父親の姓を名乗ることになっていました。
一方、日本で提案された夫婦別姓は選択的夫婦別姓で、同姓にしてもいいし、別姓にしてもいいというもので、中国韓国とは全く異なります。イギリスやドイツやオーストラリアやニュージーランドなどで選択的夫婦別姓が可能でして、日本で提案された夫婦別姓はむしろ「欧州型」とか「英独型」とでも呼ぶべきものです。
中国韓国のやり方に従っているなどと考える八幡和郎氏は、2ちゃんねるまとめサイトでも読んで鵜呑みにしているのでしょう。
そして、「夫婦別姓はミドルネームや複合姓を認めれば解決する」と主張し、「 ヒラリー・ローダム(旧姓)・クリントンというように、村田=謝・蓮舫とか、村田=謝・蓮舫=花子とかしたらいいのだ」と主張します。
「夫婦別姓はミドルネームや複合姓を認めれば解決する」って、認められてないから問題が起きてるんでしょうが!!
認められていれば「村田=謝・蓮舫」とでもしていたかもしれないでしょうが、現実として認められていないのに、いったいどういう批判をしているのでしょう。現行制度の上で批判してもらいたいものです
大体、自分で「蓮舫はファーストネームだけで、氏・名の形になっていないからだめだ」と批判していた人が、「村田=謝・蓮舫」を推奨するってどういうこっちゃねん! 全然一貫性が感じられません。
帰化人やハーフがどんな名前を名乗ろうが、それはその人の価値観であり、そんなことを他人が批判すべきではありません。ローラやベッキーやシェリーなど、全く日本的でない名前を名乗っているハーフタレントも少なくなく、政界入り前に芸能活動をしていた蓮舫もその一つに過ぎないでしょう。
もしも欧米系のハーフタレントが蓮舫氏と同じように芸名で政界入りして野党第一党の党首になりそうになった際に、八幡氏は同じような批判をするでしょうか。私はそうは思えません。この八幡氏の論理性のなさを見ていると、中華系の名前のままというのが気に食わない、というただそれだけにしか見えません。
名前は個人のアイデンティティの問題です。制度上芸名での活動が認められている以上、「蓮舫」で通すことに何の問題もありません。八幡氏は蓮舫氏の名前だけでなく、蓮舫氏の子供の名前まで持ち出して、蓮舫氏の「華人意識」の高さを批判します。もはやこれはヘイトスピーチと言ってもいいかもしれません。繰り返しになりますが、ハーフの人が両親の国どちらも大切にして、いったい何が悪いことがありましょうか。
政治家を批判する際に、政策や実行力ではなく、元の国籍や名前を問題視する八幡氏。自分勝手な価値観を押しつけるその傲慢ぶりや、自分の感情論を押し通すための論理性のないでたらめで幼稚な2ちゃんねる並みの論理展開にはあきれ果てますが、八幡氏の蓮舫批判のばかばかしさは、これで終わりではないのです。
これは八幡氏個人の問題にとどまらず、愛国カルトな人たちの国籍や人種感覚を考えるうえで役に立つと思いますので、またまた次回に続きます。


にほんブログ村 政治 ブログランキング
コメント
頼山陽とか西周とか北一輝とかどうなるんだと
外圧と武力で江戸幕府を倒そうとした人間なんですけど・・・
これでは振る舞いが完全に革新左翼ですよ。
保守だったらむしろ新選組を押すべきでは?
中国韓国の場合は姓であり、出身部族を表すものです。
だから結婚しても変わらないのが当たり前。
養子も基本的には(あくまでも基本的には)同族から取るものです。
対して日本の場合は苗字であり、家族を表す単位だから簡単に変わるもので、昔は結婚のみならず藤原氏やら武士やらのように引っ越しした先の地名を苗字にするなんてことも多々あったわけで(鎌倉幕府の重鎮の大江氏の子孫が毛利荘に領地を持ったから毛利家となり、その子孫が毛利元就になったとか、その他地名と名字が同じになってる武家は多数ありますね、)。
根本的に無知から来ているのでしょうが、自らの無知を全く自覚せずに全世界にそれを堂々と公表して何一つ恥じる事の無いその姿勢、自分にはとても真似出来ません。
恥という概念があったらとてもとても出来ることではありません。
そして、ネトウヨさん達の主張する日本の文化とは恥じらいの心がうんたらかんたらというのを時々見かけますが、彼らの無恥さを鑑みるに、彼らは日本人ではないのかもしれません。
「ネトウヨさん達の主張する日本人像」と「実際のネトウヨさん達の姿」の乖離があまりにも凄まじく、むしろ「ネトウヨさん達の主張する中韓の姿」と「ネトウヨの言動」がほぼイコールな不思議。
無恥で無知って、最強ですね。
保守は幕府を擁護し、極右は尊皇攘夷の維新志士を擁護すべきでしょう。
民主主義や人権を尊重しようとしたり、貧困や環境破壊に怒る左翼的な人は明治以降じゃないといませんよ。
ま、結局はそういう人たちもお上に弾圧されて消え去るんですがね
人は自分の憎むものに似てくるっていうしね
ただ、実際はもっと酷くてネトウヨの妄想の世界にいる「悪い左翼」や「悪い韓国人」にネトウヨが似ているという・・・
こいつに教わる学生が気の毒でならない
気を付けないとネトウヨに似てきてしまう…かな?
以前にも文系叩きと安倍政権の教育政策について言及させていただいたことがありましたが、漢字なり歴史なりの文系学問を軽蔑し、理系分野にだけ偏重して「科学(技術)大国」なんてあり得ないと思います。
でも、文系叩きをする人たちは本気でそれが成り立つと思っているのが怖い。
古代ギリシャや中世ヨーロッパがそうだったように最先端の科学には「哲学」がつきものですが、今のこの国で哲学の意義なんて言い出したら失笑されかねないですしね…
冷静に考えてみるとおかしな話ですよね。
いくら技術があったとしても、それを使う人が使い方を誤れば、
その結果として惨事を招く、そんな例は枚挙にいとまがありません。
ノーベルやアインシュタインの嘆きを知らんのかと言いたくなります。
確かに日本人が開発した技術もたくさんあります。
そして、日本は「技術大国」と呼ばれたりもします(自称かもしれませんが)。
ですが、それを使う人への教育がなっていないというのが現実かなと思います。
そのメリットやデメリットに関して、正確にきちんと説明する能力
(プレゼンテーション能力、きちんとした日本語で文章を書く能力)がない、
歴史的にどういうことが起こってきたかというのを踏まえた、深い議論がない。
技術さえあれば人間は機械的に働いているだけでよい、みたいなのは
なんだか寂しい感じがします。
そこに生きる人たちが幸せになっていることがまず第一であると思いますし、
そうでなければ人は何のために生きるのかということになりますよね。
馬車馬のように働くためだけに人は生きているのではないわけですから、
技術だけではなく、人は何のために生きるのか、過去・現在・未来にわたって、
常に考えていかなければならないことになるのではないかと思います。
技術だけあって、その精神が空っぽでは、役に立つ要素が半分になります。
それこそ「仏作って魂入れず」になってしまいますよ。
人間とは何かをきちんと定める、それが法の大筋であるわけですよね。
ここでいう法というのは、極端に言えば、文系学問すべてだと思っています。
このことを今の日本人は忘れていないかと危機感を持っています。
法があるからこそ、今私たちはそれなりの生活をすることができている。
と同時に、その考え方を常に進めていくことこそが、人間の生活を豊かにしうる、
私はそう考えています。
そのために法学、政治学、歴史学、社会学、哲学、心理学、文学などがあると思いますし。
これは、経済の在り方や、インターネットの使い方にも言及できるのではと思います。
経済にしても、お金を儲けることが至上命題になっている感じですよね、今の日本は。
でも、そこに人と人がかかわる、そのために売り手も買い手も幸せになるためには
どういう形で取引をするか、あるいはお金を使ってどういうことをするのが幸せにつながるか、
そこまで考えるのが本来あるべき姿ではないかなと思います。
ネットに関しても同様で、「ネットができる」という技術はもちろん必要ですけれども、
その中にちょっとした心がけであったり、情報をやり取りすることがどういうことかという
基本的な事柄(メディア・リテラシー)を知らなければ、世の中を混乱に陥れ、
その結果としてたくさんの人が不幸になってしまいます。
それでいいのかと言ったらいいわけがありません。
不幸が自分に返ってくる可能性だってありますよね(ネット規制なんてのが典型例)。
もっと、基本的な倫理観であったり、人間同士がやり取りするんだから、
人間ってなんだ、人はどう思うのか、考えるのかといった哲学的要素を
きちんと考えた上で「交換」をしてほしいなと。
法学だろうと歴史だろうとあらゆる人文・社会科学系の学問の土台にあるものですからね。
さすがに「あらゆる学問の基礎づけをするのが哲学だ」とか「哲学は諸学の皇帝」なんて時代ではないけど、大事な分野だと思いますよ。
それに湯川秀樹や朝永振一郎は道教から仏教から西洋哲学まで精通していたというし、益川敏英さんもバリバリのマルクス主義者ですし、思想は科学者にも絶対必要
そもそも雅号自体、中国っぽいものが多いですね。
>以前にも文系叩きと安倍政権の教育政策について言及させていただいたことがありましたが、漢字なり歴史なりの文系学問を軽蔑し、理系分野にだけ偏重して「科学(技術)大国」なんてあり得ないと思います。
でも、文系叩きをする人たちは本気でそれが成り立つと思っているのが怖い。
>話は飛びますけど、人間が人間らしく生きるという権利を認める、
人間とは何かをきちんと定める、それが法の大筋であるわけですよね。
ここでいう法というのは、極端に言えば、文系学問すべてだと思っています。
このことを今の日本人は忘れていないかと危機感を持っています。
その通りですね。文系軽視の国は独裁につながります。中国しかり、旧ソ連しかりです。
蓮舫氏は本名の一部分を使用しているだけですが、森田健作は本名と比較すれば全く別の名前です。
森田氏になんの批判も無いのに蓮舫氏批判というのは難癖以外のなにものでもないでしょう。