ざっくりいうと
・足立康史が「朝日新聞、死ね」と、国会議員とは思えぬツイート。
・八幡和郎がそれを擁護するという、言論人とは思えぬ反応。
・池田信夫が足立康史と八幡和郎を正面から批判。
日本維新の会の足立康史が、「朝日新聞、死ね」というツイートをしました。これに関しては、もう今更私がああだこうだ評価する必要もないと思いますが、このブログで何度か取り上げた八幡和郎という男が、足立康史のこのツイートを擁護していました。
私からすれば、八幡氏のこの擁護は幼稚極まりないです。朝日新聞が「日本死ね」と言ったわけではないですし、以前も記事にしましたが、そもそも「保育園落ちた、日本死ね」は、外国人がヘイトスピーチとして「日本死ね!」と憎悪をまき散らすのと違い、待機児童問題に苦しむ、何の権力もない母親が、行政に対する怒りを個人のブログで述べたものです。それを糾弾しなかったから朝日新聞に対して「死ね」と言っていいなど、全く何の理屈にもなっていません。足立氏は流行語大賞になった「保育園落ちた日本死ね」を前提に、「『死ね』という言葉は私自身は許容されると思っていないが、今の国会と日本社会は是としているようなので使った」としているが、足立氏のツイートを取り上げた毎日新聞の記事で、大谷昭宏氏は「保育園に落ちた一人のお母さんのつらい立場の発言をまねしたのだろうが、根本的に違う。言論の府の国会議員が民主国家の最大の柱である言論機関に『死ね』と言うのは、浅はかに尽きる」と批判している。
この件については、足立氏の言い分の方が正しい。なんとなれば、「『死ね』という言葉は私自身は許容されると思っていないが、今の国会と日本社会は是としているようなので使った」という言い分はもっともなものだ。もちろん、こうした意識をしっかり持った上でのことでなければ足立氏を支持しない。
もし、朝日新聞が「日本死ね」を糾弾していたのなら、このような表現は足立氏も使ったはずがないのである。もちろんそれでも、個人とか人間の集団に対しては、そうであっても「死ね」は犯罪行為に繋がりかねないからダメだ。たとえば、「日本死ね」に対して「山尾志桜里死ね」と言うことが許されるわけがない。しかし、朝日新聞はそうではない。
(アゴラ)
色々と言いたいことはありますが、池田信夫がこの八幡氏の幼稚な擁護に対し、かなりはっきりとわかりやすく批判をしていたので、紹介しておきたいと思います。私は池田信夫は大嫌いですが、今回の件については、池田信夫が全面的に正しいと考えます。
足立氏が苦しい言い訳をするのはともかく、八幡氏の記事は意味不明だ。全くその通りです。この件は、朝日新聞がどんな記事を書いたのかとは無関係なのです。にもかかわらず、「朝日新聞は『日本死ね』を糾弾しなかった」という理由で「朝日新聞、死ね」を擁護する八幡和郎は、結局のところ、八幡和郎は自分が朝日新聞が嫌いだから「朝日新聞、死ね」を擁護しているだけとしか言いようがありません。そこには国会議員が言論機関に『死ね』と言うことの重みに対する思慮は一切感じられません。(略)「『死ね』という言葉は許容されない」という意識を自分でもっているなら、社会がどうだろうと「死ね」という発言はしないのが常識だ。
さらに足立氏の発言は、単なる表現の問題ではない。彼は公権力を行使する国会議員であり、立法によって朝日新聞の社長を殺すこともできる。これは比喩ではない。治安維持法は「國体ヲ變革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織」する者に、最高刑として死刑を適用すると定めた。
もちろん今は憲法で表現の自由を守っているからこういう立法はできないが、足立氏には憲法を改正する権限もある。国会議員が言論機関に「死ね」と宣告するのは、国家が言論を圧殺するという恫喝であり、表現の自由の侵害である。
彼は朝日新聞社に謝罪して、「死ね」というツイートを削除すべきだ。それは朝日新聞がどんな記事を書いたかとは無関係である。
(アゴラ)
反ナチ運動の牧師であったマルティン・ニーメラーの(言葉がもとになっている)有名な詩を、八幡和郎は知っているでしょうか。
ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は共産主義者ではなかったから
社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから
彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから
そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった
権力が言論を攻撃したとき、たとえ攻撃されている相手が自分が気にくわない相手であろうと、止めねばなりません。私は産経新聞が大嫌いですが、もしも国会議員が「産経新聞、死ね」と言えば、産経新聞の言論の自由の擁護をしないわけにはいきません。(そんな日が来ないことを祈る)
八幡和郎は、ニーメラーが70年も前に述べたことが、まるで分っていません。国会議員が、自分の気にくわない記事を書いた新聞社に対し「死ね」と述べたのです。これを許せば、当然国会議員が「産経新聞、死ね」と言うのも許されるし、国会議員が「八幡和郎、死ね」と言うのも許されることになってしまうのです。
八幡和郎は、自分を言論人と思うのならば、国会議員という権力者が、たとえ自分が嫌いな朝日新聞相手であろうと、「死ね」と言うことを擁護してはいけませんでした。
八幡先生、僕は足立先生と違い、「死ね」なんて言いません。ですが、八幡先生の思考は、言論人としてあまりに幼稚です。もしも、今回池田先生が批判されていることを理解できないとしたら、大学教授なんて辞められた方がよいかと思います。学生がかわいそうです。
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コメント
てっきり彼のことだから、冷笑するだけかと思ってたのに!
「皇族の結婚相手はかくあるべきだ!自由なんて認めるべきでない!」みたいな妄想を無理矢理正当化しつつ書いていて、こんなん書いてる人間って一体どんだけ醜悪な顔をしているのかとか考えちゃいました。
自分の主張だけをごり押しして他者を排撃することを厭わないって、根本的に心が醜悪なんでしょうね。
こんなんが大学教授になれちゃうなんて、世も末ですなぁ・・・。
「サヨクや在○ョンを野放しにすれば日本はこうなる」という様に悪用されている
ヴォルテールの言葉にしても自身がヘイトスピーチする権利をお前らは全力で守れ!でもお前らは黙れ!死ね!という風に…
足立議員や八幡氏は沈黙しそうな気がしますね。
今後の動向に注目しましょう。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%B3%E7%AB%8B%E5%BA%B7%E5%8F%B2
足立康史
「京都大学工学部卒業。1990年、同大学大学院工学研究科修士課程修了」「1990年、通商産業省(現:経済産業省)に入省。1998年、アメリカ合衆国コロンビア大学国際関係公共政策大学院修士課程を修了。2011年3月、退官。」
カギ括弧内がwikiからの引用箇所です。彼名義のTwitterによると「元・経産省官房参事官」という経歴が記載されています。これから見ると、キャリア組としての実績は一定以上あるものと思われます。おそらくその時点の足立康史ならこのような暴言を吐かなかったでしょう(もしやらかしたら直ちにそのポスト&実績は無くなるので)。
国会議員としての売名として当該発言はなされたと考えて間違いは無いと私見では考えます。問題は、彼自身がそれの誤りを認識できないこと&与党内部や国会や衆議院が彼(の発言)に対する政治的な責任を追及する動きが無い事、言い換えると上記統治システムの自浄作用は機能していないことにあると思います。
「八幡和郎」なる人物については、当方が別記事のコメントで彼の売名について書き込んでいます(HNは同一なので特定は容易かと思います)。
池田信夫も(時々)きれいな池田になるとはこの記事で初めて知りました。
尻に火がついてきた足立を応援しても得がなさそうだし
しょうもない擁護しかできない八幡は切りたいんですかね
完全にやってることが維新破壊、安倍のスパイじゃん
普通の維新支持者から目の敵にされてるんだけど 大阪にいるから分かる
だけどネットの変な連中からは賞賛されてる、それを足立は私の支持、維新の支持、世論の支持、大阪人の支持だと勘違いしてる無知っぷり
これは次は落選だな 大阪府民はばかじゃない
私は足立議員の言動自体に、根本的な問題があるとは思いませんが
もちろん、表現が過剰すぎることは問題ですが(足立議員はそれも狙ってやってるのかもしれないけど)
そもそも言論統制に繋がることは国会議員は何があってもやってはいけない、とは思わない
多くの独裁政権がやってきたような、民意を無視して政権が権力の掌握の為に行うような物は私も反対ですが
民意に基づくものならば議論されるべきではある
朝日新聞死ね、というのが民意であればそれは問題提起として国会の場で議題に挙げられてもおかしくはない
死ね、とまでは行かなくても、マスコミや新聞の報道にはやり過ぎを規制すべきだという意見があるのであれば、そういった層の支持を受けて選ばれている議員がそういう意見を出しても問題はないとは思う
言論統制に繋がることではあっても、です
もちろん言い方や状況によっても変わってくることではあるだろうが
(例えば安倍総理が同じことを言ったら、影響力的にはよろしくない)
在特会の主張も民意ですか?
そうであるならば、国会議員が同じ主張をすることもアリですか?
多数派が提起することはタブーにするな、というならいじめも差別も日本人の多数派が娯楽として楽しくやってることだから正しいことになるが
あんたはただ足立の発言を批判するなって言いたいだけでしょ
>私は足立議員の言動自体に、根本的な問題があるとは思いませんが
そういうの擁護って言うんですよ。
なんで正面切って「八幡氏を擁護する。正しい」って言わないんです???
「民意」があれば言論統制が許されるのならば、「民意」があれば大量虐殺も許されるだろう。「ユダヤ人を絶滅させよう」という「民意」があれば、ユダヤ人の大量虐殺も許されることになる。貴方が言っていることはこれと寸分変わらない。そもそも「朝日新聞死ね」を「民意」などと呼ぶのがおかしいが、いかなる「民意」が存在しようと、国家権力が言論統制をしようとする動きが認められるわけはないのである。
どうしてそこまで素朴に民意を信用出来るのやら(信用というより信仰?)
例えば、日本には未だに暴力革命を訴えてる人々が一定数いますけど、彼らの主張も民意の一部ですから、国会で堂々と暴力革命を訴える議員がいても良いって事になるんですかね…
そういった事は、もはや民主主義的なものじゃなくて全体主義的なものでしょうな
その記事ってネットで読めますか? 読めるのなら記事にしてみたいです。
それにしてもこの足立康史の発言と一個人のブログでの愚痴、しかも後者は「保育園に落ちた」ことに対する、「日本」といういわば抽象的なものに向かっての「八つ当たり」という極めて感情的なものなのに対し、前者は「国会議員」という立場にある人間が「朝日新聞」という具体的な標的に対する確信犯的な攻撃を行ったものである(皆さん、両者の違いはこういうことでよろしいでしょうか?)という区別もつかないなんて、八幡和郎という人物はやはり「とても教授の器とは思えない」ですね。
「彼らが在特会を不当に攻撃した時、私は声をあげなかった」
などと言い出す人がいるぐらいだし
知性の欠片もないバカは黙ってろよ。
どうでしょう、私はマイノリティへの差別は宜しくないと思うので、朝鮮人は出て行けなどのヘイトはよろしくないとは思いますが
あくまで、国民の声を届けるのであれば、国会議員が言ったかどうかは問題ではないという考えです
国民の声の時点で問題なことは、問題だと思いますよ
国会議員"だから"いってはいけないという論に反対なだけです
なお、在特会の他の主張は詳しく知らないのですが、論理的、理性的な主張があればそれについては代弁してもいいかなとは思います
何でもタブーにするな、といっているのではないです
以前の発言で伝わりにくかったら申し訳ないが
タブーというのはマスコミではなく、国民が決めることではないですか?
八幡氏と私では論点がちがうので。
足立議員の擁護になっている、という"結果"は同じですが
八幡氏の名誉については、私はどちらでも良いことです
※10と似た話になってしまうのですが、私は民族虐殺はあり得ないことだと思っているので反対です
それは、足立議員が言うことについてではなく、国民の一意見であってもです
言論統制については、適切に議論してもらえるのであれば議題に挙げてもいいものではないでしょうか?私は少なくとも、マスコミの報道のあり方には、ある程度の規制やルールが欲しいと言う意見自体は、ディベートの議題としてはあり得ない話ではないと思っているので、それを受けた国会議員が発言することにも問題はないと思っているのです
言論統制といっても、どの程度までとか、線引きの問題でもあるのですが、それが民意を受けたものであれば(例え権力側でも)議論自体をタブー視するべきではないと考えています
http://agora-web.jp/archives/2026241-2.html
http://agora-web.jp/archives/2026316.html
http://agora-web.jp/archives/2026330.html
>もうひとつ大事なことは、結婚相手を探していくなかで、好ましい条件の相手との出会いがあるように工夫することだ。
>とくに、悠仁さまについては、今上陛下も皇太子殿下も相手さがしにたいへんご苦労されたのだから、その反省が活かされねばならないと思う。
眞子様の結婚相手の問題点に冒頭で触れつつ最後にこんなん書いてくる辺り、八幡先生は皇室の御結婚を動物のブリーディングのようにお考えのようです。
他人事だからと堂々と人権が制限されることを肯定出来るって、人としてどうなんでしょうね。
この人権制限が八幡先生御自分の身に降りかかることであれば、きっと言論の力(笑)を使って全力で否定することでしょう。
言論統制に「適切な議論」など天地がひっくり返ろうが絶対にありえず、「議題に上げる」という発想が出てくる時点で民主主義を根本から欠片ほども理解していない。
>>私は少なくとも、マスコミの報道のあり方には、ある程度の規制やルールが欲しいと言う意見自体は、ディベートの議題としてはあり得ない話ではないと思っているので、それを受けた国会議員が発言することにも問題はないと思っているのです
100%何があろうと絶対にありえないし、そんな発言をする人間は国会議員にふさわしくなく、問題であることは民主主義国家の常識中の常識中の基本の基本だ。
国家権力による言論統制を考える時点で、それは民主主義国家の根本を否定する行為だ。民主主義を根本から覆すという点で、「言論統制を議論していい」という発想は、「ユダヤ人絶滅計画を議論していいい」と何も変わらない。
phi氏は民主主義とはどういうものか、言論の自由とはどういうものか、根本から学びなおす必要がある。選挙をやってれば民主主義で、選挙で選ばれた国会議員は「民意」の後ろ盾があるから何言ってもいいと思っているなら大間違いだ。
言葉遣いだけ丁寧にすれば話を聞いてもらえるなどと思わないこと
あんたが足立と八幡を全面擁護したいだけってのがこちらに分からないとでも思うのか
phiさんの主張はどうも不明瞭ですね。
『ヘイトはよろしくない』
と言いつつも、
『国民の声を届けるのであれば』
とも言っています。
「いったいどっちなんだよ」と思ってしまいます。
答えやすいように質問します。
「朝鮮人は出ていけ」と言う人たちの主張は『民意』ですか?
そういう人たちが支援者である国会議員が、「朝鮮人は出ていけ」と発言することは肯定されるものですか?
どこを見て朝日を信じてるなんて思ったの?(笑)
朝日新聞な記事内容と、国会議員が「朝日新聞、死ね」と発言することの是非は関係ないということがわかっていないバカ。
あなたのような短絡的思考の持ち主がいるから、朝日新聞はかえってしぶとく生き残って行くという逆説(笑)。
・発信者:ただの親⇔国会議員
・発信元:ただのブログ⇔公式Twitter
・対象:抽象的なモノ⇔一新聞社
という違いがわからないんかな?
>八幡氏と私では論点がちがうので。
貴方はこう書いてますよね。
>私は足立議員の言動自体に、根本的な問題があるとは思いませんが
こう思えるのなら論点が違かろうが、思想が異なろうが擁護はできますよ。
現に管理人氏はこの記事で池田信夫氏の発言を擁護しています。
彼の思想や言動は支持していなくてもね。
「結果として」擁護となっている事が分かっているなら
「擁護をするつもりはないが」なんて逃げを打つのはお止めなさい。
具体手な反論をするでもなく、馬鹿にするだけで勝った気になる
ネトウヨの方々みたいですね、残念です。
※28 桑原一馬
おそらく、あなたと私では言論統制という言葉に感じるイメージが違うのではないでしょうか?
権力者が恣意的に乱用する類のものではなく、あくまで公共の福祉や社会秩序に反するものを何らかの手段で規制するということです
もちろん、言論統制に繋がりうるかのうせいがあっても、議論はされるべきだということです
そのことについて(民間人であっても)議題にあげることすらタブーなのでしょうか?
私は、ヘイトスピーチ規制法や共謀罪もある種言論統制に繋がりうる議題だとは思いますが、議題にあげるなとは言いません
それが必要であれば適切に議論されるべきだと思っていますが
※36 新人読者
あの、足立議員の発言は(言葉の過激さを覗いて)最初から容認しているつもりではありますが
何故八幡氏の擁護をしていることになるのでしょう?
そりゃ結論は一緒ですが、それだけです
この記事が八幡氏の言論に対して、論理がおかしいとかそういう指摘をしているものだったので
私は別の理由で足立議員の発言を容認するよとコメントしただけです
八幡氏の思考論理や倫理について私は何の言及もしません
結論が一緒になることを、擁護、と定義するということであればそれでいいです
民間人の間では議論できるのに、議員が口してはいけない
というのに反対ということです
何がタブーか、タブーでないかは厳密には国民それぞれで異なるとも思いますが
例えば「殺人を合法化しようか?」や「黒人から人権を取り上げようか?」
のようなものは普通は議論されません、大顰蹙です
しかし、民間人が「最近○○が特定の勢力に有利なデマを流していて、影響も大きい。こういった物に対して何らかの規制は必要ではないか」
と問題提起したとすれば、それ自体は議論になるでしょう
それを国会議員だから口にすべきではないというのは反対だということです
問題があるものはしっかりと問題があると言ってもらわねば
「朝鮮人は出て行け」は差別そのものなので私は擁護はできません
「在日特権死ね」ならば言葉遣いはNGで本質的には問題ないかな?と
>>あくまで公共の福祉や社会秩序に反するものを
>>何らかの手段で規制するということです
「公共の福祉」を「公益」と勘違いしてるんでしょ。
「公共の福祉」は、AとB両者の人権がぶつかった時に、それを調節する理論の事です。例えば、煙草を吸う権利と、煙草を拒否する権利がぶつかった時に、どこで折り合いをつけるか、というのが「公共の福祉」です。「公益」ではありません。差別の場合、他人の人権を傷つけるものだから許されないのです。
その一方で、公益や社会秩序を根拠に言論を取り締まろうなどということは言語道断。「社会秩序」なんてものを根拠に言論を取り締まれるのなら、いかなる言論取り締まりも可能になります。その代表例が治安維持法です。
たとえ某新聞が「ISISに報復しよう。戦争しよう」という、社会秩序に反することを言っても、それを国家権力が取り締まるなどということがあってはならないのは、民主主義国家における最低限の常識です。「社会秩序のために言論を規制しよう」という発言は、「民主主義を止めよう」という発言に他なりません。
>>民間人の間では議論できるのに、議員が口してはいけない
>>というのに反対ということです
>>何がタブーか、タブーでないかは
>>それを国会議員だから口にすべきではないというのは反対だ
貴方、タブータブータブータブーと繰り返しますが、別に議員が発言することを法的に規制しろ、なんて言っているわけではありません。
ただ、そんなことを言う議員は民主主義国家の議員として相応しくないクズ野郎だ、と思うだけです。
あーつまり、「治安維持法を復活させたい」という考えなんですかね?
建前とする目的が物凄く似通っていたもので。
僕が前述のコメントで指摘した、つまるところ「主語を広げんじゃねえよ」という意見には「反論」してもらえないんですね!残念です!ちなみに最初からあなたに「反論」なんかしてません!残念です!
そして少子化の中、10年後に彼の所属している徳島文理大学が存在しているかどうか、仮に存在していたとしてもハク付けのために雇われただけの専門が何だか分からない(何しろ彼は日本史が専門なのかと思うほど同分野の本を書いています)大学教授に座る椅子があるかと聞かれれば・・・。
石破、福山、玉木を犯罪者と発言した件は
謝罪したそうです。
「ここでの池田氏の発言は全面的に正しい」と肯定した管理人氏。
八幡氏の発言を肯定しておきながら
「彼を擁護するつもりはない」と逃げを打ったphi。
彼らの言動を対比して見ると
思想だの言論だのって何なんだろうなと思ってしまう。