<ざっくり言うと>
  • 「靖国神社を参拝して不戦の誓いをする」などと言う者がいるが、靖国神社は不戦の誓いをする場ではない。「何かあれば、私も次に続きます」「次は勝ちます」と、次の戦争への決意を誓う場であり、不戦の誓いをするなど愚の骨頂である。
  • もしも靖国神社が不戦の誓いをする場であるならば、靖国建設(明治2年)後に、日清・日露・第一次・第二次大戦と、何度も戦争を繰り返すわけがない。歴史を見れば、靖国神社が不戦どころか戦争を積極的に後押しする施設であることは明白。
  • 靖国を参拝し、戦死者を「国の無謀な命令で命を落とした犠牲者」ではなく「国の為に命を捧げた英霊」として称えることは、先の戦争での国の行為は間違っていなかったという認識を表明することに他ならず、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにする」という不戦の誓いとは相いれないものである。
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↑靖国に参拝し「不戦の誓い」をしたという岸信夫。だが靖国神社はそもそも「不戦の誓い」とは真逆の存在である。

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靖国神社で不戦の誓いをする愚 


今年も終戦の日が来た。毎年靖国参拝が取りざたされるが、どうやら靖国を参拝して「不戦の誓い」をするというおかしな奴らがいるようだ。


岸大臣は13日午後2時頃、靖国神社を参拝。私費で玉串料を納め「衆議院議員 岸信夫」と記帳した。

参拝後に岸大臣は「先の大戦で国のために戦って命を落とされた方々に対して尊崇の念を表すとともに哀悼の誠を捧げた。また不戦の誓い、国民の命の平和な暮らしを守り抜く決意を新たにしたところだ」と語った。

>>靖国参拝は不戦の誓いがあったはず

>>日本の議員なら思想とか関係なしに
>>哀悼と不戦の為に靖国参拝しろ。



しかし、これは愚の骨頂だ。靖国神社とは、不戦の誓いをする場所ではない。


靖国はA級戦犯合祀の問題ばかりが取りざたされるが、そもそも靖国神社の存在自体が不戦の誓いとは相いれないものなのである。

靖国は積極的に戦争を後押しする機能を果たした


靖国神社のHPにも書いてあるが、靖国神社とは「明治以降の日本の戦争・内戦において政府・朝廷側で戦歿した軍人らを祀る神社」である。戦争で国家や天皇に貢献したものへの顕彰施設であり、決して政府の行為によって行われた戦争を反省し、不戦の誓いをする場所ではない。


靖国神社が建てられたのは明治2年だが、もしも靖国神社が不戦の誓いをする場所であるならば、その後日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦と、戦争を繰り返すわけがないではないか。


靖国建設後にも戦争を繰り返した事実は、靖国神社が不戦とは真逆の物であることを証明している。前の戦争で死んだ者を祀ることで、「お前も死んだら靖国で祀ってやるから、安心して行ってこい」と、次の戦争に国民を送り出すことを正当化する機能を果たしたのが靖国神社だ。


また、戦地に送り出された国民は、「死んだら靖国で会おう」と言い、死の恐怖から目を反らした。イスラム原理主義が「聖戦で死んだら天国に行ける」と言って兵士を戦わせることと変わらない。


戦争に国民に死を強いる国の責任と、実際に死ぬ恐怖から同時に目を背けさせ、戦争遂行をやりやすくし、次の戦争を肯定する機能を果たしたのが靖国神社である。


太平洋戦争で靖国神社が果たした役割を見ればはっきりわかるではないか。靖国神社が、不戦の誓いどころか、戦争を積極的に後押しをした施設であることに疑いをはさむ余地はない。



靖国参拝は不戦の誓いではなく「後に続く」という次の戦争への決意を表明するものである


あの稲田朋美はこう述べている。
靖国神社というのは不戦の誓いをするところではなくて、『祖国に何かあれば後に続きます』と誓うところでないといけないんです(参照
私は稲田のことは心の底から軽蔑しているが、靖国の解釈については彼女は正しい。靖国神社とは、戦争犠牲者を弔って戦争を否定する場所ではなく、戦死者を「英霊」として祀り、その行為を称え、戦争を肯定するための場所である。


靖国参拝は、決して不戦の誓いをするものではない。戦争による犠牲者を英霊として美化し称え、「祖国に何かあれば後に続きます」と、次の戦争への決意を表明するものである。それは靖国建設後に何度も戦争を繰り返した歴史を見れば明らかだ。


山崎雅弘氏のこのツイートでもそのことが良く分かる。

靖国とはこういう場所である。



戦死者を「英霊」として祀る靖国を参拝することは、先の戦争を正当化することに他ならない


靖国参拝を肯定する者は、靖国に祀られている者たちを「英霊」と呼ぶ。

「英霊」とは辞書的には戦死者の敬称とされているが、例えば、西部邁は以下のように述べているという。孫引きになるが引用する。
「(靖国)神社は『英霊』を祀る場所であり、そして『英(ひい)でた霊』とは『国家に公式的な貢献をなして死んだ者の霊』のことをさす。故東条英機をはじめとするA級戦犯と(占領軍から)烙印を押された我が国の旧指導者たちに英霊の形容を冠するのは、歴史の連続性を保つという点で、是非とも必要なことと思われる」
「A級戦犯と名付けられている(戦勝国によって殺害された)人々の霊(なるもの)が英霊でないはずがない」(参照
A級戦犯が「国家に貢献をした」者だという西部の解釈を私は全く理解できないが(むしろ国家を滅亡に追いやったではないか)、戦死者に対し「英霊」という言葉を用いるとき、「国家の愚行による犠牲者」ではなく「国家に貢献した英雄」とみなす意識があることは間違いないだろう。


先に引用した岸信夫も、「哀悼」だけではなく、「先の大戦で国のために戦って命を落とされた方々に対して尊崇の念を表す」と述べている。先の大戦で国のために戦った行為が尊いことだと言っているのである。


だが、誰かを称えるということは、その行為や目的が正しかったと主張することと同じである。


もし、ブラック企業で過労死した社員を、会社が「会社の為に命を捧げた英霊」と呼んで祀ったらどうだろうか。もはやクズでしかないだろう。過労死した社員は「会社の無茶な命令による犠牲者」である。それを「会社の為に命を捧げた英霊」として祀ることは、社員を死に追いやった会社の行為を反省しないばかりか、正当化することに他ならない。「犠牲者」を「英霊」にしてその死を美化することで、その死の原因を作った会社の罪から人々の眼を背ける誤魔化し行為である。


靖国神社も全く同じである。靖国神社に戦死者を祀り、彼らを「政府の愚策によって命を落とした犠牲者」から「国の為に命を捧げた英霊」にしてその死を美化することは、その死の原因を作った国家の罪から人々の眼を背けさせる誤魔化し行為である。


特に、太平洋戦争は、他国から攻められたわけではなく、満州事変→日中戦争→真珠湾と、日本が自ら始めた戦争である。自国民にも、他国民にも多大な犠牲者を出した戦争である。彼らは国の無謀な政策による犠牲者である。


彼らは「僕達の為に 明日の為に 日本を 護ってくれた」英雄ではない。そのようなお題目を信じ込まされ、国によって、落とさなくていい命を落とすことになった犠牲者である。それに、一説には日本の軍人や軍属の戦死者230万人のうち過半数である140万人が餓死や病死だと言われている(参照)。戦争自体も愚策だったし、戦術も無責任体制が生んだ愚策の連続だった。「大和魂」でアメリカに勝つなど愚劣もいいところだ。


その彼らを「国の無謀な政策により犠牲者」ではなく「国の為に命を捧げた英霊」としてして祀る靖国神社を参拝することは、彼らを死に追いやった国の行為、すなわち先の日本の戦争を正しい目的の為に行われたものとして正当化することに他ならない。正しいものだと思っているから、「ごめんなさい」ではなく、「ありがとう」なんて言葉が出るのである。


「太平洋戦争は自衛戦争だった」
「日本はアジアの植民地を解放した」
など、先の戦争を正当化する者がいるが、靖国神社を参拝するということは、そのような考え方を持っていると内外に示すことだと言ってよい。


靖国神社とは、決して不戦を誓う場所ではなく、紛れもなく戦争を肯定する場所なのである。死を強要しながら、それを美化し、肯定し、その死の原因を作った政府の罪を誤魔化すための施設が靖国神社なのである。


靖国参拝は「不戦の誓いでなく、次は勝つという誓い」


このブログで何度も取り上げた西村幸祐という男がいる。私はこの男のことは人間のクズの究極進化形ぐらいに思っていて、軽蔑なんて言葉では足りないほどだが、この男は靖国参拝に関連してこのような発言をしていた。

西村幸祐は特攻を肯定するばかりか、「不戦の誓いではなく、次は勝つという誓いでなければならない」と言っている。彼は、特攻も含め、先の戦争を肯定し、次の戦争も否定しない。


靖国神社に参拝するということは、このような考えを持っていると思われて当然なのである。


靖国参拝と言うと、「中韓が反発」などということばかり報じられるが、外国が反発するかどうかは二次的な問題である。そもそも靖国は不戦を誓う場ではなく、戦争を肯定する場所である。そのような場所に政治家が参拝することが適切かどうか、外国からではなく、日本国内からもっと疑問が出るべきであろう。


日本国憲法前文にはこう書かれている。
政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意
つまり不戦の誓いである。


だが、靖国神社は、不戦の誓いをする場所ではない。「何かあれば後に続く」「次は勝つ」という誓いをする場である。そこには政府の行為よる戦争の惨禍に対する反省は一切ない。事実、安倍談話からは,
それまでにあった「痛切な反省」や「お詫び」という言葉が消えた。


岸信夫は哀悼の意だけではなく、「先の大戦で国のために戦って命を落とされた方々に対して尊崇の念を表す」と言った。やはり先の大戦での日本の行為を反省する姿勢は全く見られず、「日本を守るための自衛戦争だった」という意識が見て取れる。もしも先の戦争を間違っていたと思っているのであれば、戦死者に対する思いは「感謝」や「尊崇」ではなく、間違った行為、間違った命令により落とさなくていい命を落とさせてしまったことに対する「痛切な反省」のはずである。


何度でも言うが、靖国神社はその歴史を見れば、不戦を誓う施設ではなく、戦争を肯定する施設であることに疑いをはさむ余地はない。そこを参拝するということは、
「先の戦争は間違っていなかった」
という認識の表明に他ならない。


「靖国神社で不戦を誓う」など、滑稽もいいところである。靖国を参拝するのであれば、むしろこれぐらい↓堂々と開き直っていただきたい。

靖国神社は不戦の誓いをする場ではない。

「何かあったら後に続きます」
「次は勝ちます」

と、次の戦争への決意をする場である。


靖国神社を訪れて「英霊」に敬意を示すなら、堂々と「次の戦争では私も彼らの後に続く誓いを立ててまいりました」と言うべきで、「不戦の誓いをした」などと言うべきではない。


不戦の誓いをするなら、靖国神社は訪れていい場所ではない。千鳥ヶ淵戦没者墓苑あたりに行くべきである。

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